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ONGAKU-ZANMAI

ピアノの歴史2
前回に続き
完結編

ピアノの進化

ピアノは19世紀後半以後、国際的な巨大産業へと発展していきます。これは他のどの楽器にも見ることのできない特徴です。
イギリス・アクションの強靭で華やかな音質は、作曲家・演奏家・聴衆からも広く求められ、そのためピアノは内部のアクションに更に複雑なテコを利用して、強い打鍵を要する楽器となっていきました。

金属フレームの登場
その強い打鍵力を得るために、より強い弦の張力が必要とされ、それに耐えうる金属の丈夫な弦、そしてその弦を張るための金属フレームがピアノに組み込まれていきます。

そして更に、ピアノ内部の面積を有効に使って、高音弦と低音弦を交差させた「交差弦」、弦を張る金属フレームに継ぎ目をなくしてより強度を高める「単一鋳造フレーム」という技術も開発されました。

産業の中のピアノ
ここからはもうウィーン式vsイギリス式ではなく、双方が混ぜこぜになり「時代の求める音」を作っていくことになります。
そして、一つのピアノを完成させるには、ありとあらゆる総合的な工業力を必要としたため、ピアノ産業は車や機関車などと共に、国力を象徴する産業として重要視されるようになりました。
その頃頻繁に開催された万国博覧会やピアノ博覧会で、各国のメーカーはその技術力を競います。

 

美意識の変化

金属フレームのピアノを最初に万国博覧会(1851)で出品したのはチッカリングというアメリカのメーカーで、それに続いてスタインウェイも金属フレームのピアノを博覧会に出品し、その輝く張りのある音質は人々をとりこにしました。
その後もスタインウェイは金属フレームをはじめ様々な開発で特許をとり続け、現在でもピアノの王者として君臨しています。

こうした「新しいピアノ」の音質に人々がとりこになったのは、人々のピアノの音に対する美意識が変化していたことも大きな要因の一つでした。
リスト、シュタイベルト、ルービンシュタインやブゾーニなどヴィルトオーゾ達の登場によって、よく鳴り響き、輝かしく華やかな音質が好まれるように時代は動いていたのでした。

 

金属への抵抗

この時代の流れは止まらず、その後、最も伝統のあるシュトライヒャーも金属フレームを採用し、ベーゼンドルファーもウィーン式を捨て、金属フレームのピアノを1873年に出品することになります。そしてフランスの名門プレイエルも、スタインウェイに対抗する新型モデルを打ち出し、金属フレームを採用することになっていきます。

こうした流れの中で、それまで革新派だったフランスのエラールとイギリスのブロードウッドは、金属フレームに強く抵抗しました。
そして最後まで金属フレームを採用することのなかったブロードウッドは国際競争から外れ、ついにピアノ産業を退いてチェンバロ復興のために力を注ぐこととなったのでした。

こうした金属フレームへの嫌悪感、葛藤は、ほとんどのピアノ製作者が家具職人家系の出身であることが大きな理由の一つでもありました。
木の美しさと、ピアノの内部アクションの細かい精密さ、それらを手がける木工職人のプライドや伝統が、金属フレームを組み込むことをなかなか受け入れられない要因だったのではないでしょうか。

 

時代を経て・・・
こうして完成したのが、現在のピアノです。
ピアノという楽器は近代産業という荒波の中で生まれ、他のどの楽器とも違う進化をしてきました。以上が、大まかなピアノの歴史です。

 

 

 

 

日本のピアノ
最後に、日本産のピアノはどう発展していったのか、少し書いてみます。

日本にピアノという楽器が始めて入って来たのは、徳川時代幕末の1823年、シーボルトが長崎に持ち込んだイギリス・ロルフ社のピアノが1台目と言われています。

明治時代に入ってから、日本は次々と西洋の製品の国産化を目指していきます。その一つとして、ピアノは一体誰が最初に日本で製造したのかというと・・・
これには色々な説があって、よく分かっていません。
外側の木を日本で作っても、内部の部品や弦は西洋からの輸入品を使っているので、純日本製とは言えないからです。

でも1878年のパリ博覧会で、確かに日本からの出品された「純日本製」のピアノは存在していたようで、それは西川寅吉(1850〜1920)がイギリス人とドイツ人から技術を習得して作ったものだという説が、1番強いようです。

西川楽器は、日本のピアノ製造初期の代表的なメーカーでした。
やがて、山葉寅楠(1851〜1916)の設立した日本楽器(現ヤマハ)、そして山葉の片腕だった河合小市(1886〜1955)が日本楽器を辞して河合楽器研究所を設立したりと、日本のピアノ製造産業が盛んになっていったのでした。
その他にも幾つかのピアノメーカーがあり、現在も生産を続けています。

(2007年8月号・文章/河合美穂)

 

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