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音楽三昧

↑ゆかりの森にて

梅雨も明けて、夏本番ですね!夏は楽しい遊びがいっぱい、皆さんがどんな夏を過ごされたか、ぜひ聞かせてくださいね♪
良い夏になりますように!!

ピアノの歩み

ピアノという楽器は、18世紀の初め(1709年)にヨーロッパのフィレンツェで発明されました。でも、18世紀末までは前身のチェンバロが鍵盤楽器の主流で、ピアノが躍進的な技術改新を始めるのはベートーヴェンが生まれた1770年頃からです。
ピアノはどのように進化していったのでしょうか。

 

ピアノ初期の成り立ち

1709年イタリアのフィレンツェで、クリストフォリという人が、それまでのチェンバロやクラヴィコードとは原理の違う、最初の「ピアノ」を考えました。
その後、クリストフォリの作り方を元に、有名なパイプオルガン製作者のジルバーマンという人がピアノを試作して、1747年にバッハがベルリンのフリードリヒ大王の前でジルバーマンのピアノを演奏したことが知られています。

ただ、この頃のピアノは音色も弾き心地も良くなかったため、あまり人気がありませんでした。ベートーヴェンも、1792年に生まれ故郷のボンから音楽の都ウィーンに出てくるまでピアノを弾いたことがなく、それまでほとんどチェンバロを弾いていましたから、ピアノは普及していなかったのでしょう。

イギリスアクションとウィーンアクション

この頃のピアノには、ウィーンを中心に作られていた「ウィーン・アクション」と、イギリスを中心に作られていた「イギリス・アクション」という、2つのタイプのピアノがありました。これは何のことかと言うと、ピアノ内部の音を出す仕組みのことです。

↑マリア・テレジア

これが18世紀後半になると、イギリス・アクションのピアノが世界の主流となっていくのですが、なぜそうなったのでしょうか?
それは、オーストリアのマリア・テレジア女帝と、プロイセンのフリードリヒ大王の争いのためでした。3回・延べ7年も続いた戦争から逃れるために、ドイツのピアノ製造者達が多数イギリスに渡ったのでした。

 

 

また時代を同じくして、ドイツ・オーストリアの各王族宮廷が(ウィーンのハプスブルグ家なども)財政難となり、それまで抱えていた多くのピアノ・楽器製造業者が国外へ流出しました。

フランスはどうかと言うと、やはりフランス革命によってエラールという有名なパリのピアノ業者がイギリスに渡って、イギリス・アクションの発展に力を貸すことになります。(フランス革命前、エラールはマリーアントワネットのお気に入りでした。)

先程書いた、7年戦争から逃れてイギリス(ロンドン)へ渡ったピアノ製造者の中にはツンペという人がいて、この人は当代一の優秀なピアノ製造者でした。ツンペのイギリス行きはピアノの歴史に決定的な影響をもたらし、ハイドンは1794年からツンペのイギリス・アクションのピアノで作曲しています。

さて、ヨーロッパ大陸に残ったピアノ製造者達はどうしたのかというと、(イギリスは島です。)やはり大変な状況の中でもピアノ作りを続けていて、そのウィーン・アクションの代表的な存在は、シュタインという人でした。
モーツァルトはシュタインのピアノがお気に入りで、たびたび手紙の中でも賞賛しています。また、シュタインの娘はシュトライヒャーというピアノ製造者に嫁ぎ、シュタインの伝統を引き継ぎながらシュトライヒャーがウィーン・アクションピアノの代表的存在になっていきました。

このシュトライヒャーのピアノをとても気に入ったのがベートーヴェンで、初期のベートーベンのピアノ曲は、このピアノによっ創造力を高められたと言われています。

ウィーン式とイギリス式の音色はどう違うのか

シュトライヒャーのピアノに代表されるウィーン式は、軽いタッチと鈴の鳴るような優美な音色が特徴で、細かい表情の変化が可能です。ツンペやブロードウッドのピアノに代表されるイギリス式は、鍵盤が重く深く、力強い響きと張りのある音質が特徴です。これら2つの違いは、文化的好みの違いと言っていいでしょう。当時のドイツ圏では「弱音」が美徳とされ、イギリス圏では「力強さ」が良しとされていたようです。

さて、「18世紀末にはイギリス・アクションが主流となった」と書きましたが、このまま終わりではありません。
「ウィーン・アクション」と「イギリス・アクション」が、それぞれの美点を追求しながら弱点を克服し、作曲家に楽器を献上をして助言を求め、2つの流派は切磋琢磨していったのでした。

 

ピアノの進化に貢献したベートーヴェン

ウィーン・アクションの流派も、イギリス・アクションの流派も、それぞれ楽器の改良を重ね美意識を表現する上でうってつけの音楽家を見出しました。それがベートーヴェンです。19世紀前半は、ベートーヴェンを中心にピアノが進化し続けた時代となりました。ベートーベンのピアノソナタは、ピアノ進化の軌跡ともいえます。

ベートーヴェンの部屋はとても散らかっていて、家具もないような状態でしたが、常に楽器製作者が出入りし、ベートーヴェンに試演してもらうために提供した新作ピアノが次々と運び込まれました。
ベートーヴェンはウィーン・アクションの音色を生涯にわたって愛好しつつも、イギリス・アクションの目をみはる技術革新には多いに注目し、またその広がる「ピアノの可能性」に創造力をかき立てられていました。

その代表的な出来事が、イギリス・アクションのエラールとのやり取りでした。
(フランスの代表的なメーカーはエラールとプレイエルとありますが、プレイエルはウィーン・アクション式で、ショパンが最も愛好したピアノです。)
エラールのピアノに不満だらけのベートーヴェンは、楽器を寄贈してもらったにもかかわらず「こんなピアノで曲を作るのは嫌だ」と何度も注文を出して作り直させました。

当時のピアノは5オクターブでしたが、ベートーヴェンのピアノソナタ7番には、すでに当時のピアノでは演奏不可能な音が楽譜に書き込まれていて、彼のピアノに対する深い欲求を見ることができます。

それを可能にしたのがエラールで、5オクターブ半の音域を持つピアノを作り、鍵盤が重いイギリス・アクションには無理だったトリルや連打の奏法をも可能とし、エラールのピアノがあったからこそベートーヴェンの「ワルトシュタイン」「ピアノ協奏曲第3番」「熱情」などが生まれました。

エラール社は1960年に閉鎖しましたが、このエラールなしには現代のピアノはなかったと思います。

↑ベートーヴェン使用のエラール

ベートーヴェン以後

その後もメンデルスゾーンやリストなど、有名な音楽家を用いてピアノメーカーの宣伝合戦が繰り広げられていきます。例えばリストの「ラ・カンパネラ」は、当時のエラールのピアノだけによって演奏が可能で、その作品の美しさを表現することができました。リストの所有楽器を見てみると、当時の第一線で創業していたメーカーのピアノ達が揃っています。

新しい時代の幕開け

19世紀に巻き起こったヨーロッパ全体の革命の嵐の中から、ドイツのシュタイング家がアメリカに渡り、その名を英語風に「スタインウェイ」と変えました。
そして1853年、偶然にも同じこの年に、ニューヨークでスタインウェイが、ベルリンでベヒシュタインが、ライプツィヒでブリュートナーが、この3つの19世紀後半屈指の大ピアノ制作者がそれぞれ、ピアノ製造を始めました。
そしてイギリス・アクションとウィーン・アクションの対立も終わりを迎えることになります。
この続きは、次号にて・・・♪


(2007年7月号・文章/河合美穂)

 

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